kanon 「喪失 −後編−」




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「お、おいっ!?相沢、しっかりしろよ!」


 朦朧とした視界と意識の狭間で、耳元に微かに聞こえてくる声。

だが、俺にはそれが誰だか判断できなかった。

はっきりと認識できるのは、弱々しい呼吸音に不必要に高鳴る心臓の鼓動。


「祐一、しっかりして!死んじゃ駄目だよ!!」


 耳に優しく響くソプラノの声。

何やら切羽詰っている様子に、俺は逆に笑い出したい気分になる。

おいおい、死ぬって大げさな・・・・・・

俺はいつも元気一杯なんだぞ。

今すぐここで逆立ちだって平気でやれる若さあふれる肉体なのだ。

・・・・そういえば、ここどこだっけ・・・・・?


「相沢君、大丈夫?
もう、だから言ったでしょう!無理しては駄目だって。
すぐに保健室へ連れて行くから!」


 厳しい口調ながらに思いやりのこもった声。

保健室?どうして俺が保健室に行かないといけないんだ?

俺はこのとおり元気・・・・あ・・・・・・

腕を元気良く振ろうとするが、指先にまったく感覚がない。

親指、人差し指、中指、薬指、小指、手のひら。

駄目だ、力すら入らない・・・・・・・・

腕を持ち上げようとしても、あまりにも微弱な動きしか取れない。

きっと見ている側は、俺は若干震えたとしか捉える事はできないだろう。

俺は一体どうしてしまったのだろうか?

知りたいとは思うのだが、身体がまったく動かない。

ならば見ればいいと本能が冷静に指摘して、うっすら瞼を開ける。

開けた目の前は、眩しい白きカーテンに包まれた抜ける程広がる青い世界。

その周りに群れを成して集まっているいくつもの影法師。

影法師は視界の隅を遮って、場違いなほど綺麗な群青を黒い斑点で濁していた。

何だよ、お前ら。どけよ、見えないだろうが・・・・・・・

追っ払おうとするが、血も通っていないかのように動かない腕はまるで他人の物のようだった。


「先生、こっちです!相沢君が突然倒れてしまって」


 倒れた?俺が?

なるほど、それで納得がいった。

どうりで後頭部がさっきからゴチゴチとして痛いと思った。

だが、どうして俺は倒れてしまったのだろうか?

確か・・・・・

考えをまとめようとするが、脳裏に展開されるのは真っ白なノイズのみだった。

想像する、考える、悩む。

脳内においての活動はほぼ完全に麻痺し始め、瞼も己の意思とは無関係に重くなっていく。


「何だと!?北川とあんな無茶をするからだ。
応急処置は済んでいるようだな。誰がしてくれた?」

「私です。幸い知識は持ち合わせていましたので」

「そうか。きわめて適切な処置だ。感謝するぞ、美坂」


 美坂?ああ、香里か。

香里が俺を助けてくれたのか・・・・・

普段ならありえない行為なので、俺はどこかくすぐったさを感じた。

本当なら苦笑いの一つや二つ浮かべるのだが、今はもう気力も消えかけている。

ぐらぐらと酩酊しているような靄が目の奥をゆっくりと覆う。


「しっかりしろ,相沢。すぐに先生に診てもらうからな」


 重々しい成人男性の声が耳にふれ、俺は何とか小さく頷く。

が、すぐに限界が訪れた。

自分の身体が唐突に浮遊感を感じると同時に、俺は静かに瞼を閉じる。

声も、人影も、いっぱいに広がる青い空も消え、意識はシャットアウトした。















 初めて感覚が戻ったのは、右の掌だった。

夢も見る事はなく、ただ昏々と眠りについていた俺。

気だるさだけを訴える身体に億劫さしか感じなかったが、ふと仄かな温かみが点る。

ひ弱になっている神経が伝えてくれた新鮮な感覚に手を握られているのだと気がついた時、

俺はゆっくりと重い瞼をこじ開ける。


「祐一さん・・・・」


 明らかに涙がかった切なさと喜びの混じった声。

ああ、今度こそ分かるぞ。

忘れる筈がない、間違える筈がない人の声なのだから。


「栞・・・・俺は・・・?」

「あ、動いちゃ駄目です!まだ熱がひいたばかりですから」


 重い身体を起こそうとした時、やんわりと白い手が俺を押し留める。

さすがに逆らう気力が残っていない俺はそのまま従って、寝転がった。

まだ覚醒していない頭を二・三度振って辺りを見渡すと、そこは保健室だった。

健康的な白のカーテンが揺れている窓、殺風景な飾られていない機能優先の部屋。

並んでいるベットの一番右端に、俺は寝かされていた。

窓枠に一番近いベットシーツは日向の匂いがして、どこか心地よかった。


「俺、いったいなんでここで寝てるんだ?」


 はっきり言って全然思い出せない。

確か少し風邪気味で調子の悪さをカバーすべく、意気揚々と体育の授業に出た事までは覚えている。

だが、その後どうなったのかまるで分からなかった。

俺は傍らの椅子に座っている栞を見ると、やや責める様な視線をぶつけてくる。


「祐一さん、風邪をひいていた事を知っていたんですか?」

「あ、ああ、その、一応・・・・・」


 栞の迫力に押されて口ごもりながら答えると、栞は眉をきつくする。


「どうしてそんな身体で水泳なんてするんですか!無理しすぎです!!」


 水泳?あ・・・・・・

少しずつ蘇る授業の記憶に、俺は顔を青ざめる。

栞が全ての事情を知っているとなると、さすがにもう弁解はできないな。

俺は半ば観念して、話の続きを促した。


「そ、そんなに大した事はしてないよ。
授業はクロールのタイムを早く計り終えたから、後半は自由遊泳になったくらいだし」

「水に浸かるだけで無茶です!」


 正論である。言い訳しようがない。


「それにお姉ちゃんに話は聞きましたよ・・・・・
自由遊泳になった時、祐一さんと北川さんで何をしたか」


 うげっ!?その事実まで伝わっていますか!?

おのれ香里、妹に余計なことまでべらべらと喋ったな・・・・・

助けられた恩を仇にするかどうかは後々にしておくとして、まず栞の不機嫌を何とかしないといけない。


「は、はて?僕は一体何をしたのかとんと覚えが・・・・」

「・・・・覚えていますね?」

「だ、だからあんまり覚えて・・・」

「・・・・覚えていますね?」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・覚えていますね?」

「・・・・はい」


 所詮女の強気の前には、男など無力なものだった。

特に好きな女の前では、どんな男も屈する他はないのだ。

俺は悔やみたい気持ちでいっぱいになりながら、一応の弁解を述べておく。

専門用語で言うならば、言い訳という奴である。


「ちなみに言い訳は禁止です。ありのままを話してください」

「心が読めるのか!?」

「祐一さんの考える事はお見通しです。顔に出やすいですから」

「うぐぅ・・・」

「祐一さんには似合いませんよ」


 心なしか冷めたつっこみが疲労している身体に染みるぜ、栞。

さすがにどうしようもなく、俺は渋々何をしたか打ち明けた。


「最初に言っておくと自由競泳になって、勝負を挑んできたのは北川だぞ!
俺が望んだんじゃない」

「挑戦を受ければ同じです」

「ぐ・・・・で、初めは50,100と距離を守って泳いでいたんだけど、
なかなかタイムも似たり寄ったりで決着がつかなくて、つい・・・・」

「どちらが先に疲れるかのサバイバルルールに変わったと?」


 うう、保険の先生はどこに行ったんだ・・・・・

静まり返った誰もいない保健室内で、俺は無数の針に突き立てられている気分だった。


「・・・・・ちなみに勝ったぞ」

「勝ってどうするんですか!
そんな事をするから倒れてしまうんですよ!!」


 水泳というスポーツは全身運動である。

特に体力は過大に要求される過酷なスポーツで、健康の状態でも疲労度は大きい。

ましてや半病人だった自分には少し無理があったようだ。

勝負の決着がついてプールから上がった時に激しい眩暈を感じたあの時に倒れたのだろう。

どうやら自分が考えていた以上に、風邪の進行は進んでいたようだ。

涙目になっている栞を見て、俺は後悔した。


「悪かったな、心配させて」

「・・・お姉ちゃんが祐一さんが倒れたって言って、私びっくりしました・・・・
びっくりしたんですから・・・・」


 ずっと心にたまっていた何かが噴き出したのだろう。

栞は俺に体重を傾けて、小さくすすり泣いた。


「栞・・・・・・」


 身体全身にかかる重みと温もり。

寝込んでいる俺の傍に座っていてどのような気持ちだったか、それがはっきりと伝わってくる。

言葉にできない思いが募り、自分の不器用さに腹が立つ。

大切なものを喪う気持ちは、お互いに知っているのだから。


「本当にごめんな、栞。もう無理はしないからさ」

「・・・・絶対ですよ」

「おう、男に二言はない」

「ふふ、祐一さんらしいです」


 ゆっくりと顔をあげた時の栞の泣き笑いは、俺の胸の奥をかき乱した。

俺は黙って、そっと栞を抱き締める。

もう心配はかけさせないからな、栞・・・・・・

言葉では伝えられない誓いをこめて、俺は無力な腕に精一杯の力を込めた。
















――追記





見舞い代わりに食べてくださいと、笑顔でボリューム満点の弁当を差し出すのはある意味で凶悪だと思う。











<終>

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